出かけようとして、玄関で足が止まる。
——ガス、止めたっけ。
靴を履きかけたまま、しばらく考えます。結局思い出せずキッチンまで戻って、つまみを確かめる。ちゃんと止まっている。ほっとして、いざマンションのエレベーターに乗ると、「……鍵閉めたっけ?」
こんなこと、増えていませんか。実はこれ、50代になった私の毎日です。
100人のお客様の、会話の内容まで覚えていた
こう見えて、若い頃は記憶力が自慢でした。
接客の仕事をしていたころ、固定のお客様が100人ほどいらっしゃいました。その全員のお名前はもちろん、前回どんなお話をしたかまで、たいてい覚えていたのです。
「以前、こうおっしゃっていましたものね」
そうお返しすると、「えー!そんなこと覚えててくれたんですかー!」と驚かれる。あれが、ちょっと嬉しかったのです。
いまは、お名前を聞いて30分もちません
その私が、です。
初めてお会いした方にお名前をうかがって、30分も経たないうちに「あら? この方、なんてお名前だったかしら」となる。さっき聞いたばかりなのに、です。
物の名前も、出てきません。
「ほら、あれ。あれ取ってちょうだい」
気づけば、なんでも「あれ」で済ませようとしています。しかも家族には、これでちゃんと通じてしまう。通じるから、思い出そうとしなくなる。ますます出てこなくなる——という、なかなか見事な悪循環です。
つらいのは、忘れることではありませんでした
ここが、自分でも意外だったところです。
実のところ、大きな失敗はまだしていません。約束をすっぽかしたことも、火事を起こしかけたこともない。忘れてはいないのです。
しんどいのは、そこではありませんでした。
忘れないように、ずっと気を張っていること。これでした。
予定をひとつ入れると、それだけで気持ちが重くなる。忘れていないのに、何かに追われているような感じがずっと続く。頭のどこかが、常に見張り番をしているのです。
そういえば最近、「何も考えたくないな」と思う時間が増えました。やらなければいけないことから逃げたくなったり、誰か代わりにやってくれないかしら、と思ったり。
あれはきっと、見張り番に疲れていたのだと思います。
ガスコンロの前で、指をさしてみた
不安が増えてきたころ、なんとなく始めたことがあります。
ガスコンロの前で、つまみを指さして、こう言ってみたのです。
「よしよし、ガス切った」
駅員さんがやっている、あの指さし確認です。ひとりの台所で声に出すのは、正直ちょっと気恥ずかしいものでした。
その日、いつものように出かけようとしたとき、やっぱり不安がよぎりました。
——あ、ガス切ったっけ?
ところが、です。
指をさした自分の人差し指の動きが、ふっと浮かんできたのです。
「あ、切った切った」
戻らずに済みました。それ以来、出かける前は大事なところを指さすようになりました。「火、オッケー」「クーラー、オッケー」「鍵、オッケー」。声に出して、指をさす。それだけです。
忘れっぽくなったのではなく、残り方が変わっただけ
この一件で、思ったことがあります。
私は記憶力が落ちたのではなく、「ぼんやりやったこと」が残らなくなっただけなのではないか、と。
昔は、何も考えずにやっても、ちゃんと残っていました。いまは、意識してやらないと残りません。でも、意識してやれば、ちゃんと残るのです。
しかも私の場合、あとから浮かんできたのは「つまみを見た記憶」ではありませんでした。指を動かした記憶のほうでした。目より、体のほうが覚えていた。これは、ちょっとした発見です。
だとしたら、一日じゅう見張り番をしている必要はありません。指をさす、ほんの一瞬でいい。そう思えてから、気持ちがずいぶん軽くなりました。
老眼のときもそうでしたが、できなくなったことは、やり方を変えればなんとかなるものですね。
まとめ:指さし1回で、見張り番をやめられる
- つらいのは「忘れること」より「忘れまいと気を張ること」。実害がなくても、じわじわ疲れます
- 指さし+声に出す。ガス、クーラー、鍵。これだけで戻らずに済むようになりました
- あとから浮かぶのは「見た記憶」より「体を動かした記憶」でした
- 忘れっぽくなったのではなく、ぼんやりやったことが残らなくなっただけかもしれません
年齢による変化ですから、嘆いてもはじまりません。うまく付き合っていくよりほかないのだと思います。
それに——100人のお名前を覚えていたころの私は、たぶんずっと気を張って生きていたのでしょう。いまのほうが、頭のなかはのんびりしています。それはそれで、悪くない気もするのです。
※ここに書いたのは、あくまで私ひとりの実感です。日常生活に支障が出るような物忘れが続く場合は、年齢のせいと決めつけずに、医療機関にご相談ください。
あなたも、玄関で足が止まることがありますか。よかったら今日、ガスコンロの前で指をさしてみてください。ちょっと気恥ずかしいですが、けっこう効きますよ。

